天使の城 中庭
「また飛ばされるですっ!」
辺り一帯に常人では立っていられない程の風が吹き荒れる。
チルトスの両足が地面から離れ、その軽い身体は浮き上がる。
彼の頭に自らが紙のように吹き飛ばされる光景が浮かぶ。しかし、素早く彼の背後に回りこむ姿が確認できたと思えば、身体を支えられた。
「リンダ先輩、ありがとうございます!」
「気にしなくていい。それより、必ず隙をつくるからその瞬間を見逃さないように」
「はい!」
チルトスは自然とロープを握る手に力が入る。
手強いな…
リンダは鋭い視線の先にカイの姿を捉えながらも、心の中でそう呟いた。
対峙する二人とカイ。この状況を作り出したのは何なのか。
時間は僅かに遡る。
・・・
「ポケットの中?ただのりんごが入ってるだけですけど」
そう言うと、ポケットから実物を取り出す。それは紛れもなくりんごだった。
「りんご…、あっ!」
チルトスはその赤い果実を見た瞬間、あの言葉を思い出す。
『この件で乗っ取られた者は「りんごとりんごの木の枝」を持ち歩いているらしいんだ。あくまで噂だけどね』
リンダがカイに話しかけた理由、それは彼のポケットに大きな丸い膨らみがあったからだった。
当然それだけではその中身がりんごとは限らない。そのため、彼女には中身を確認する必要があった。
結果、確かに予想は当たっていた。
「やはり君がアスモデアノスだったか…」
リンダは槍の鋒をカイの顔へと向ける。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!このりんごはただ人に贈るために持ってるだけで!それにアスモデアノスなんて聞いたこともないです!」
「確かに、『りんごだけ』なら偶然持っていただけという可能性もある。でも…」
リンダが指を指す。その先にはりんごを取り出されたことで、できたポケットの隙間。
そこから覗かせるものは…
「木の枝です!りんごとりんごの木の枝、どっちも持ってるなんて偶然にしては出来すぎです!」
チルトスの発言から、先ほどまで必死の形相だったカイは俯き、急に黙りこむ。
その様子を見守る二人は息を呑む。
ふぅ、とため息ひとつ。
「まったく、まさかりんごを持ち運んでいたことが知られていたとは…。せっかくの演技が台無しじゃないか」
その表情も、口調もカイのものではない。アスモデアノスがフリズの次に器として選んだのはカイだったのだ。
「なぜわざわざ魔界からりんごを?」
「ここまでりんごを運ぶのは大変だったよ。なにせ、新しい身体に乗り移る度に前に憑りついていた者からりんごを回収しなくてはいけなかったのだからね。
まあ、俺の心が抜けてしばらくは意識を失っているから、回収自体はそこまで難しくはないんだが」
「そういうことを聞いてるんじゃない。何の目的でそのりんごを持ってきたのかを質問したんだ」
「さっきも言っただろう?これは贈り物。プレゼントさ。
いずれにしても、俺は目的を果たすまで捕まる訳にはいかないんだ」
カイ(アスモデアノス)の目が獲物を狩る獣の目に変わる。
「いけない!チルトス!離れて!」
「えっ!?」
「疾風の刃となり、切り裂け…メガハリケーン」
・・・
吹き飛ばされそうになったチルトスをリンダが支える。
カイ(アスモデアノス)は風属性魔法を上手く用い、接近を許さなかった。これでは捕縛は叶わない。
まずはなんとかして近づかなければ…
リンダは思考を巡らせる。
彼の魔法は広範囲だが、それ故に威力そのものは高くない。
ならば一点突破で突っ切る。
リンダは前方に槍を構える。そして静かに詠唱を始める。
「エレバースト!」
彼女は槍を持たない方の手で後方に雷(いかずち)の弾丸を打ち出す。それは地面に衝突した瞬間、爆発を起こす。
爆風を利用し、超加速で疾走する。
迫り来る空気の壁は前方に構えた槍で貫いて行く…。
目に映るカイの姿が一気に大きくなる。
槍の間合いに入ったところで、突きの姿勢から転じ、槍を頭上にかまえる。
そして速度をそのままに、刃を振り下ろす。
空気を切り裂く音と共に、刃が眼前に迫る。身体を反らせて回避したは良いが、直後に刃を返し、横凪ぎが繰り出された。
武器の扱いに長け、且つその中でも槍を得意とするリンダ。一度その間合いに入ってしまえばその巧みな槍術に圧倒されること請け合いだ。
「素晴らしい槍捌きだ。そうだな、例えるならば銀の嵐か。だが…」
斬撃と斬撃の僅かな合間を縫うように、疾風の刃を纏った手刀が繰り出される。
リンダは一歩後方へと退く。しかし狙いはリンダ自身ではなかった。
乾いた音が響く。気づけば槍は刃の付け根付近でスッパリと切り取られてしまっていた。
手に持つ柄の部分を残し、刃は宙を舞う。
「しまっ…!」
「武器を破壊してしまえば、君は無力だろう?残念だが…ぐっ!」
腹部に激痛が走る。目線を移せばそこには『槍の柄』があった。
リンダは刃が切り取られたことなどお構いなしに柄の部分だけで突きを繰り出していた。
それだけではない。彼女は宙に舞う切り取られた刃の僅かに残った柄の部分を掴むとアスモデアノスの首もとに突きつける。
「私は槍以外にも大抵の武器は扱える。たとえ槍が両断されようと、柄は棒、刃は短刀として扱えば良いだけのこと」
「フフ、武人の如く凛々しいレディだな。俺も武人としての血が涌いてくるようだ。本来の目的とは異なるが、暫しの間戦いを楽しませてもらおうか」
カイ(アスモデアノス)の髪は逆立ち、瞳が少しばかり赤く染まる。
アスモデアノスの興奮に呼応するように魔獣の力がカイの身体に馴染み始めたのだ。
「これから楽しもうとしているところ申し訳ないが、もう少し周りを見た方が良い。敵は私だけではないからね」
アスモデアノスは急に身体が締め付けられるような感覚を覚える。
「…!これは!」
「おとなしくお縄につくです!」
チルトスはリンダがアスモデアノスの気を引いている間、その小さな身体を生かし、こっそり後ろに回り込んでいた。
「俺としたことが、戦いを楽しむ余り、視界が狭くなっていたようだな」
苦笑いを浮かべるアスモデアノス。完全に諦めたのか、身体の力も抜いていた。
「仕方ない…」そんな呟きが聞こえてきたと思えば、急にアスモデアノスの意識は消失し、カイの身体は地に伏せる。
突然のことにチルトスは「えっ?えっ?」と声をあげてあたふたする。
次の瞬間、リンダは驚いたように目を見開く。
「まさか…!次の身体に憑りつこうと…!チルトス!離れて!」
リンダもチルトスも咄嗟にカイの身体から距離をとる。
「だ、だ、だ、だ、大丈夫でしょうか?乗っ取られたりしないでしょうか!?」
「大丈夫、まず落ち着くんだ」
そんな会話をかわす内、何故か再びカイの身体は動き出す!
そして彼を縛り上げていた縄も小さな風の刃が切り裂いていく。
「謀られた!」
刹那に反応し、カイの身体を取り押さえようとするリンダだったがそれでも遅かった。
完全に自由を取り戻したカイの身体はリンダをするりと躱し、その場から離れる。
アスモデアノスの心はカイの身体から離脱してはいなかった。あくまで気を失ったフリをしてそのように見せただけだったのだ。
そしてリンダ達から顔が見えないようにうつ伏せで倒れた彼は、密かに縄を解くための魔法の詠唱を小声で行っていた。
「これからもっと楽しくなりそうなところだが、今は止めておこう。そろそろ目的を果たしたいからね」
それだけセリフを残し、風の如く去ろうとした…が、彼は立ち止る。
とてつもない悪寒を感じたからだ。得体もしれない化け物に肩を掴まれたような、そんな感覚だった。
気づけば目の前には一つの人影。
「君か…閃光のラオン」
「やあ」
そこには爽やかな笑顔を浮かばせたラオンの姿があった。
黄金六天使の一人、閃光のラオン。本来なら血が騒ぐところだが、この借り物の身体では流石に厳しいだろう…
カイ(アスモデアノス)は神経を張り詰めさせる。
「そんなに殺気立たなくてもいいよ。別に俺は戦う気はないからさ。ほら、行くところがあるんだろう?」
そう、言うとラオンはスッと道をあける。
「…どういう風の吹き回しだ」
「深い意味はないさ。少なくとも『今の』君は天界に害をなす気はないと判断しただけだよ」
「まさか俺の目的に気づいたのか…?まったく、末恐ろしい男だな」
「君も充分末恐ろしいよ」
互いに怪しい笑みを見せ合う二人。異様な空気が伝わってくる。
「今回はお言葉に甘えようか。身体を取り戻した時、今度こそ合間見えよう。もっとも、その時は天界の敵としてかもしれないが」
ラオンとのすれ違い様にそれだけ言い残して、彼は去っていった。
彼を追うように、静かに風が吹き抜ける。取り残されたラオンの蒼い髪は揺らめいていた。
「その時が来たなら、全力で守りぬくさ…」
誰にも聞こえない程の小さな声だったが、ラオンは確かにそう呟いた。
「隊長!」
リンダとチルトスは慌てた様子でラオンの元へ向かってくる。
「大変だったね。リンダ、チルトス君」
「いえ、それよりもいいんですか?追わなくても」
「うん、二人ともお疲れ様。今回の任務はこれで終了だよ」
リンダとチルトスは顔を見合わせる。
「しかし、まだ何も…」
「いいんだ。彼は天界に危害を与えに来たわけじゃない。それがわかったからね」
「あ、あの、アスモデアノスは何をしに天界に来たんでしょうか?」
「んー、ちょっと説明は難しいかな。俺は『彼女』によく面会に行くカイ君から『彼女』の過去を又聞きしたからわかったんだけど…」
「…彼女?」
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