「着いたわよ」
湖の深紅を見分けるのが難しいくらい、頼りない月明かりに照らされた血海。
その湖畔に、突然現れた二人の人物がいた。
黒色のローブをまとった女性と、魔界では珍しく可愛らしい装飾が施された服を着た少女である。
「思ったよりも真っ暗じゃねえか」
「出来る限り人に見られたくないから、と夜に来ると決めたのはあなたでしょう、アサン」
「そうだけど、ここまで暗いとは思わなかったんだよ」
「で、本当にあなただけの単独行動でいいのかしら?」
「オレの力をナメてんのか?
それに、おめえはおめえで他の奴らを運ばねえといけねえだろ」
「そうね。
でも、空間操作能力は、あなた達が思っている以上に魔力を消費するのよ?
たまには休ませてほしいわ」
「勝手にしろ。
じゃあ目が慣れてきたし、そろそろ行くよ」
「そう。せいぜい頑張ることね」
どうせ、六神なんて実在しないに決まっているのに、と、黒ローブの女性は小声で付け加える。
しかし、その声は相手には届かなかったのか、少女の姿は闇の中に消えていった。
少女を見送った女性は、ふう、と深いため息を吐いた。
彼女は普段、移動先の風景をのんびり眺めて休養することが多い。
しかし生憎のところ、現在は夜中であり、星空くらいしか見るものがない。
しかも、天気が悪いのか、空は吸い込まれてしまいそうなほど真っ黒だった。
先程までアサンと一緒にいたはずなのだが、ずっと一人でここにいたかのような感覚を覚えてしまう。
時間や空間の概念が失われ、懐かしく心地良いような、それでいて気味悪く恨めしいような感覚。
————次元の狭間。
「……移動しましょう」
ここにいると嫌なことを思い出してしまいそうだと感じた彼女は、どこか明るい場所に行きたいと思った。
そして彼女が真っ先に思い浮かべたのは、天界の風光明媚な都市、リーシャス。
早速、彼女はリーシャスに向けたゲートを作成し始める。
何も思い出さないように、心を無にし、ゲート作成だけに力を注ぐ。
そんな彼女は、考えることもしなかった。
リーシャスが、一般市民も多く訪れる土地で、他の土地以上にゲートの管理がしっかりしているということ。
それ故に、通常ならば空間が非常に安定している場所だということ。
しかし、それにもかかわらず、どうやら空間移動はすんなりと成功したようだ。
* * *
のびのびとリフレッシュしたいとはいえ、さすがに裏の世界で活動している彼女には、観光客に交じって堂々と空谷の池を見物するようなことはできない。
近くの林に入り、湖を遠くから眺めることにする。
空谷の池は、足元に空が広がっているように見えることで有名な観光地だ。
しかし、彼女の位置からでは、単に湖面に空が映っているように見えるだけだった。
観光客はたくさんおり、彼女の位置から池が見えなくなることもしばしばあったが、天界の明るく綺麗な空気に触れるだけでも十分なリフレッシュとなっていた。
気力を回復した彼女は、辺りを散策することにした。
爽やかな木漏れ日を浴びながら、彼女はあてどなく歩みを進めていく。
しばらくして、少し開けた場所に出た。
そこには、日光を全身に浴びながら眠っている男性の姿があった。
衣服は質素だが、行き倒れと思えるほどの汚らしさは感じられない。
黒縁眼鏡は綺麗で、顔をよく見ると、どうやら彼は、彼女の昔の知り合いのようだった。
顔や体格まで含めて、別れた時のままの格好そのままだったので、彼女は思い出さざるを得なかった。
昔のことを思い出したくなかったから、わざわざここまで来たのに、と彼女は嘆かわしく思う。
起こしてやる義理もないので、そのまま立ち去ろうと考えたが、男は欠伸をし、体を動かそうとしているようだったので、仕方なく手伝ってやることにする。
——今の彼の状態では、体を動かすのも辛いということは、彼女だからこそ知り得ていたことだった。
彼女が上半身を支えてやって、ようやく彼は起き上がることが出来た。
「久しぶり。いえ——お久しぶりです、アルバートさん」
彼が彼女の方を向くのと同時に、彼女は話しかける。
彼が少しでも気づきやすいようにと、彼と別れる前の口調に戻して。
しかし、アルバートと呼ばれた男は、彼女のことを認識できなかった。
口調だけでなく性格も、容姿さえも彼と別れた時とは大きく異なっているので、それも無理はない。
「えっと、どちら様ですか?」
「——あなたには、ファニナ、と名乗れば分かるでしょうか?」
彼女の正体を知ったアルバートは、驚くでもなく、恐れるでもなく、どうやら安心しているようだった。
「ファニナか。生き延びてくれていてよかった」
「変なことを言うんですね」
「無理して昔のように喋らなくてもいいよ」
「そう、じゃあ普段通りの口調で喋らせてもらうわ。
で、あなた、変なことを言うのね。私とあなたは、天魔大戦で戦った仲なのよ?」
* * *
上級天使アルバートは、シャドーカオスの事件からしばらくして、行方不明になった。
オックスのごとく、一人でシャドーカオスを探しに行ったという人がいた。
しかし、アルバートのことを良く知る人物に言わせてみれば、そんなことは考えられない。
魔物に人間のやり方を押し付けたくない——それが彼が口癖のように言っていることだった。
そんな彼が、シャドーカオスを倒しに行く可能性は極めて低かった。
結局、後になって知る所となったのだが、彼は魔族と共に暮らしていたのだった。
そして時が経ち、天魔大戦が始まった。
天使軍は、アルバートが住む町へも侵攻を始める。
彼にとってみれば、自分のために他の者を排除するのは信念に反していた。
しかし、愛する女性を守るため、彼は天使——元同僚も沢山いた——を次々と次元の狭間へと葬り去っていった。
この事態を重く見た天使軍は、同じく空間操作能力を持つファニナに、アルバートを次元の狭間に葬るよう指示を出した。
そして、ファニナとアルバートは対峙することになった。
その勝負の結末は、相討ちとなった。
すなわち、二人とも次元の狭間に飛ばされてしまったのである——
* * *
「お互い、戦いたくて戦っていたわけじゃない、そうだろう?」
「それはそうだけれど」
「レンジくん、だっけ。弟のためだったのかい?」
「……そうね」
今となってはすっかり体調も良くなった、弟のレンジ——今はレンと名乗っている——のことを、彼女は思い浮かべる。
弟とはいっても、彼女は次元の狭間で歳を取らずに何年も過ごしたこともあって、レンの方が年上になっていた。
「弟くんは元気かい?」
「ええ、すっかり。今は天使軍をぶっ潰すと張り切っているわ」
本来部外者に言ってはならない内容の話だったが、彼女は思わず口にしてしまっていた。
思わず口を塞いだが、すでに遅く、アルバートには最後まで聞こえてしまっていた。
「へえ、天使軍を潰す、ねえ。
まだまだ若いっていうのに、ずいぶん大きく出るね」
「……あれからどれだけの時間が経っているか知ってる?」
時間軸の話をまだしていなかったことを思い出した彼女は、アルバートに問いかける。
彼はその質問の意味を理解したようで、ふんふん、と首を縦に振った。
「弟くんも、もうすっかり大人になったわけだ」
「ええ。ウーリが『百年の大天使』と呼ばれるくらい、大天使となり続けているくらいには時間が経っているわね。
——あら、そういえばあなたは、『大天使』という称号を知らなかったんでしたっけ」
「ナルハが日頃から言っていた『大いなる天使』みたいなものだろう。イメージは付いた。
話を戻して、大人になった弟くんは、天使軍を潰そうとしているわけだ。
君もそうしようとしているのかい?」
アルバートは、意思を探るような目で彼女を見つめる。
彼女は思わず目を逸らしてしまった。
「……私は、より良い世界を目指しているだけ」
「天使たちを何人も葬り去った、俺が言えたことではないけど、他人を排除するのはファニナらしくない。
——まあ、今の君は本当にファニナではないんだろうけど」
「……じゃあ、私は誰だというの?」
「さあ?
少し前まで天魔大戦の時間にいた俺が、今の君のことなんか知るわけない。
けど、ファニナなら他を排除するようなことは考えなかっただろう」
レンに誘われてあの集団に入ってから、変わってしまったのだろう。
でも、こうなってしまったことを後悔はしていない。
天使としての仕事は、必要としてもらえて嬉しかったとはいえ、自分の意思に基づくものではなかったから。
今の仕事は、もともとはレンに影響されてだったかもしれないが、今となっては自分でやりたいと思えることだから。
レンとともに生きる、ミハンは私。自分の意思で選んだ『私』
クサナギに必要とされた、ミウナもわたし。自分の意思で選んだ『わたし』
天使軍に所属していた、ファニナは——
ミハンは、長い黙考の後に言った。
「私は、ミハンよ」
「ミハン、か。
ミハン、俺は、天族と魔族、そして他の種族までもが共存できる世界を、君たちとは違う方法で探していこうと思うよ。
みんなが共存できる世界を目指す、っていう考えは変わってないんだろう?」
「……そうね、私は、レンのように天使軍を潰そうなんて考えていないわ。もちろん他の集団もね。
浄化の過程で必要ならば仕方がないけれど、それは手段であって目的じゃない」
「そう言う考えに基づいて行動するのが、ミハン、君なんだね。
じゃあお互い、目標を目指して頑張ろうか」
「そうね。
できれば、あなたとはこれからはずっと対立しないでいられることを願うわ」
「そろそろ身体も本調子になってきたし、俺は行かせてもらおうかな。
さようなら、ミハン」
「さようなら、アルバート」
アルバートが空間操作能力で移動するのを、ミハンは最後まで見届ける。
アルバートの姿が日光に照らされたこの場所から消えゆく様は、神々しくさえ見えた。
「さて、私はもう少し散策してから帰ろうかしら」
明るい空を見上げて、ミハンは独り言ちる。
決意を新たにした彼女の後ろ姿は、心なしか以前よりも心躍っているように思えた。
(終)