それは、
魔界に残る史実の一辺。
そこに刻まれた一行の言葉。
そのほんの一行の中に込められた、長い、永い物語。
…もう、どれだけ歩いたのか。
あてもなく、足を引き摺るように歩く名も無き老人は、偽りの空を見上げ想う。
これから、何処へ行こう。
何を、しよう。
そこまで考えて、自嘲気味に渇いた笑みを溢した。
「…もう、何もしなくて良いのだったな」
ゆっくりと、目を閉じる。
血糊と土煙にまみれた服装に構わず立ち尽くすその姿は、地に突き刺さる錆びついたひと振りの剣の様だった。
******
「わあ…!あなた、とても綺麗ですね。」
妻が興奮気味に肩を叩く。
地上へと続く洞窟を抜けた先、視界が初めて捉えたのは…眩いばかりに燦々と輝く太陽だった。
「素晴らしいだろう、奥方。」
若き身でありながらニハ王国の全権を有する御方…クガミ王が語りかけた。
「はい…この体験は私たち技術班にとって余りあるものとなりましょう。」
「はは、頼もしいな。
…いずれはこの空のように、我が国も照らしたいものだ。
…カナヅキ、どうした?」
その呼び掛けに、はっと我に帰る。
「ああいえ…私も地上に出るのは初めてのことでしたので…いや、なんと…雄大なものでしょうなあ。」
王の言葉に目もくれず…今思えばなんと不躾な態度であったと恥じることだが…それほどまでに奪われたのは。
カミヒカリでは作り出せない、暖かなヒカリ。
この体を吹き抜ける風の気持ちよさ。
暗く冷たい地下には無い、生命力に溢れた大地。
「これが…本当の空。」
光の残視がチカチカと視界を遮るのも構わず。
私は。
ただ、空を見上げ続けた。
「魔天大戦以降、国の生産、輸出量は右肩下がりの一途を歩んでいます。
国益を上げ自国の繁栄に繋げるには、カミヒカリの稼働時間を上げる必要があります。」
側近の中の一人が国議で進言した。
彼は有力な側近内で急進派と呼ばれる者達の一人だ。
急進派は国の為に、という大義名分をかざし…これまでも犠牲を顧みない改革案を幾つも提案してきた。
「効率の良い生産にはカミヒカリが必要不可欠、すぐにでも取り掛かるべきかと。」
勿論それで国が豊かになったことも多少あるが…それは急進派の彼らの懐を肥やす為に、でもある。
利己的で合理的。
だからこそ、たちが悪い。
「王…ご決断を。」
それまで静かに聞いていた王…クガミ様が、円卓の上座から口を開く。
「しかし…カミヒカリには莫大なエネルギーが必要だ。
ヒノモト、ヒカリ一族の負担をこれ以上増やせば、彼らの命に関わるのではないか?」
初老の麗人、ヒノモトが腕を組みながら思案する。
「余裕は…あまりありません。
ですがカミヒカリの出力調整を行えば…街灯の蓄光率は下がりますが、稼働時間を延ばすことは可能でしょう。
…彼らの休息時間を減らすのは、心苦しいですが。」
「出力調整、か。
技術班、高価な材料を申請していたな。
何か考えがあるのか?」
数名の技術班の中から、妻が立ち上がる。
「現在カミヒカリのオーバーフローにより溢れた光源を再利用する方法を検討中です。
もし材料が揃えば、より効率の良い発光が可能になります。」
「…わかった。
今回はこれまでにしよう。
今後の方針は追って連絡する。」
その言葉を皮切りに皆一礼をし、円卓から立ち上がった。
「カナヅキ、お前はどう視る?」
苦虫を噛み潰したような顔を浮かべながら、クガミ様に尋ねられた。
「私個人としては…反対ですな。」
「なぜだ?」
「ヒカリ一族には代えがおりません。
安易に稼働時間を延ばして、もし彼らが倒れでもすれば国益を伸ばす以前の問題となりましょう。
…それに、急進派に不穏な動きが見られます。
魔天大戦からまだ日が浅い…国の混乱も冷めやらぬ今、民衆の支持を得ようと画策しているようです。
今回の発言も恐らくは…」
そこまで話して、向けられた視線に気付く。
畏怖するほどの鋭い眼孔に言葉が詰まった。
「よい、話せ。」
「…推測の域ですが。
今回の発言が通らなければ、強行手段も辞さないでしょう。
近く、内乱の可能性が。」
はあ、とため息をつきながらクガミ様は目を伏せられた。
「どうにも…儘ならんものだな。国政というものは。
カナヅキ、後で私の部屋に来てくれるか。
…お前に頼みたいことがある。」
その言葉に小さく頷き、踵を返す。
憂いを帯びた瞳の奥に、静かな決意が視えた。
あの御方は心優しい。
長い間仕えてきたが、いつも国と民の狭間で苦悩し、支えてきていたのだ。
それは一方で、煮え切らぬ態度とも取れてしまうこともあっただろう。
だが、だからこそ。
あの御方は忠誠に値するヒトなのだ。
「何をご決断されたかはわからないが…それが何であろうと、全力を尽くそう。」
あの御方の愛するこの国を…私も、愛している。
小さく呟いた言葉は誰も居ない廊下の闇にこだまし、消えた。
***
ーーーこの病は、癒えないようだ。
もし内乱が起こりようものなら、まだ幼いクサナギに全てを任せねばならなくなるだろう。
…せめて、もう少し…もう少しだけ、私は此処に座していなくてはならない。
…長い付き合いだ。
私は、お前を親愛なる友だと思っている。
だから、お前に頼む。
…これから話すことは他言無用だ。
我が王家に伝わる秘匿…"護剣"の全てを、教えよう。
薄れゆく視界が一瞬、光に染まった。
しん、と束の間静まりかえったかと思えば、大きな歓声が地鳴りのように響いてくる。
…"護剣"が発動したのだろう。
「クガミ様…ぼうや様がやりましたぞ…見て、おられますか。」
掠れた声で、呟く。
経緯は知らないが…そうしなければならない状況だったのだろう。
だが、ぼうや様は。
素晴らしい采配を振るったのだ。
ぼうや…いや、クサナギ王は、ニハ王国を救ったのだ。
この歓声を聴けば、わかる。
「ふふ…さすがは"護剣の精"。
あの時の言葉に…嘘偽りは、なかった…。」
懐かしい記憶に意識を呼び起こされ、目を開ける。
軋む体を起こし立ち上がった。
私はやり終えたと、そう思っていた。
ヒノモトは…コトコは。
この国を変えようという強い信念を持つ気丈な女性に育ってくれた。
自ら撒いた種、などと自分勝手な考えだが…あの子にならば後を任せられると、ニハとヒカリの架け橋になれると感じたのだ。
だからこそ。
あの時果てるつもりだった。
一切の情も残らぬよう…捨て台詞まで吐いて。
一歩、足を踏み出す。
歩く振動すら衝撃となる体に悪態をつきながら思案する。
…護剣が無くなってしまったのならば、まだ私にはやるべき事がある。
「…愚か者は、私だな…」
ひとりでに呟く。
…あの子には、辛い思いをさせてしまった。
「案ずるな…コトコ。
私は、まだ生きている。まだ…死なぬ。
…お前の手は、汚させぬ。」
杖を頼りに目指す陽光への道。
遠目に見える地上は、この眼に映るヒカリは。
あの頃のように輝いて見えるだろうか。
***
「あなた!どういうことなの!?」
カミヒカリの稼働時間が終わり、国中が眠りにつく頃。
仕事終わりにそのまま来たのだろうか、設計図を片手に現れた妻が声を荒げた。
「コトコ様を光源管理人に任命するなんて…いくらヒノモト様の後継者が早くに亡くなられたからって、まだ十代の女の子なのよ!?」
「カミヒカリは国の生命線、その光源を管理する者を絶やす訳にはいかない。
確かにコトコはまだ幼い、とはいえヒノモトの一族だ。
今日も滞りなく光源を使い分けていたじゃないか。」
「ヒカリ一族の方々を物みたいに言わないで。
カミヒカリの稼働時間だってそう…ここのところ日に日に増えていってる。子供たちも辛そうで…今に倒れる者が出てくるわ。」
溜め息をつく。
…何れ、こうなることだと覚悟は決めていた。
「…私もそれは、心苦しい。
だが、彼らが姓を名乗れるのは王族と同等の責を持つ立場にいるからだ。
多少無理が生じようと、彼らがこれまで…」
「訊いているのはそんなことじゃない!」
怒声が心を突き刺す。
ああ、わかっている。
わかっているんだ。
「…どうしてしまったの。最近、急進派に加わったと聞いたわ。
あなたは…あんな、自分達の利益の為になにかをするような…
そんなヒトじゃ、なかった…」
そう言い残し、妻は部屋を出ていった。
崩れるように椅子に座り込み、頭を抱える。
「……私は。」
あの日、初めて地上の空を見上げたあの時。
私達は、同じ場所を見つめていた筈だったのに。
「私は一体…何の為に…。」
今や私の視界は、
暗い闇に覆われて何も見えなくなっていた。
***
ーーー地上のアイスガーデンが狙われている。
じき、大きな戦が起こる。
アイスガーデンは我が国に劣らぬ大国、早々に崩れる事はないだろう。
だが…だからこそ、ニハに目を向けられるやも知れん。
我が国には"護剣"がある。
だが…資金繰りの為に兵の数を減らしてしまった今。
上手く初戦を退けようと…"もしも護剣が無くなってしまえば"…わかるな。
…必要とあらば、多少の犠牲はやむを得ない。
誰かがやらねばならん。
だが私には…時間が、足りない。
すまない…頼れる者がお前しかいない私を、許してくれ。
…この国を、ニハを護ってくれ。
「…御老人、再三私は告げている筈です。」
地上、極寒の地に建てられた小さな会議室。
簡素な椅子に腰掛け、パラパラと資料の束を…凡そ見ているのかわからないほどのスピードで目を通しながら、その男は言い放った。
「確かに、ラグナロクは脅威だった。
だがそれだけだ。
その脅威が無くなったと知った今、私達が貴国を攻め込むのになんの躊躇もない。
…それに、こちらの被害も大きい。
このまま黙っているような軍ではないと、貴方もわかっているでしょう。」
男のかけたサングラス越しに、静かな覇気を感じる。
…冷静の皮を被った獣のようだ。
「無理な願いと存じております。
ですがニハには腕の立つ職人、技術者が多く存在します。
…国を、民を根絶やしにするのは早計だと、情報提供を申し出た次第で…」
「協力には感謝します。
…ですが、弱いですね。
それでは国民を捕虜とする理由にはなり得ません。」
話は終わりだとばかりに、男は書類を整え立ち上がった。
この者の意思は固い…これ以上、何を言っても無駄だろう。
一時、考える。
時間にして数秒…だがそれは、願うことなら永遠に続いてほしい時間だった。
「これまで、か。」
呟いた言葉を置き去りに、真横を通りすぎた男へと視線を向ける。
微かな光明すら見出だせない老いた瞳を凝らし、はっきりと、言葉を紡ぐ。
「…ニハ王国の。
主力となる部隊、主だった作戦…地の利を生かせる場所を教えます。」
会議室の扉まで進んだ男の足がピタリ、と止まった。
「私がそれを、信じるとでも?」
「ニハは地の底の特異な立地。
地上の戦とはわけが違います。
ただ駒を動かすように進められる局面ではありませぬ。
…そちらとしても、無駄な被害は抑えたいところでしょう?」
男はこめかみを指で叩く動作をしながら思案する。
一時の後、男は老いたこの耳には届かない何かを呟き、こちらに目を向けた。
「駒…か。
何れにせよ、"ニハ王国"は滅びます。
我が軍の力を他方に示す牽制としても、それは絶対条件です。」
「存じております。」
「降りかかる火の粉は払います。
使える者は使いましょう、民も…農作業員として使えば補給が容易にはなる。
だが一切の反逆も許さぬよう…見せしめとして犠牲も出すかもしれない。
加えて貴方は、逆臣として全ての者に虐げられるでしょうが…
それでも?」
…それでいい、
これで、いい。
「ニハの為を思えばこそ、です。」
男は口角を上げながらこちらへと歩みを戻し、また椅子に腰掛けた。
書類の中から暗号で書かれた羊皮紙を一枚、机に置かれたペンを取り…隅に何かを書き加える。
「護剣が折れて尚、国が為に…と。
フッ…貴方こそ、噂に聞く"護剣の精"なのかもしれませんね。」
その言葉に、一笑する。
「何を…私はただの、錆びれた剣に過ぎませぬ。」
…そう。
身内を切り、部下を切り、国をも切り捨てた剣だ。
この汚れきった私が"護剣の精"などと…そんな、輝かしいものじゃない。
護剣の精は…気高く純真なクサナギ様にこそ相応しい。
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