「アスモデアノス様、新しいお花を置いておきますね。今年はマリーゴールドがたくさん咲いてますから、この部屋にも」
花瓶を執務室の窓辺に飾りながら、机に向かっているアスモデアノスに女の部下が声を掛ける。女性を多く抱えているこの拠点では、彼女たちが様々な花を育てているのだった。
「ありがとう」
アスモデアノスは書類に目を通しながら応じた。朝一番に机上に積まれていた書類の束は、すでに大部分が片付いている。
「ああ、君。今から考え事をしたいから、しばらく一人にしてくれるかな?」
「かしこまりました」
部下が一礼して、顔を上げると熱っぽい視線をちらりとアスモデアノスに投げかけ、それから部屋を出ていく。女の部下たちが彼にそういった視線を向けるのも、そしてまた彼が女の部下たちを酒席や枕席に誘うのも、日常の出来事だ。
洒落た仕立てのスーツに身を包んだ金髪の青年は、書類を扱う手を一旦止めると立ち上がり、窓の所まで歩いて行った。窓の外には燦々と陽射しが降り注ぎ、遠くの山々を望む穏やかな風景が広がっている。一見平和なその景色を眺めながら、彼は表情を曇らせた。
今やこの一帯でアスモデアノスの名を知らない者はないほどになっていた。生まれ持った秀麗な容姿と、人を惹き付ける巧みな弁舌、そして集団の長としての才覚により、彼の一団はみるみる規模を拡大している。
――しかし、この乱世において、はたして自分は今のままでいいのだろうか?
アスモデアノスは自問した。彼が胸裡に抱いている望みを実現させるには、彼が今手にしている力も、身を置いている環境も到底不十分だった。美貌に恵まれた天族の青年は、握り締めた拳を木の窓枠に押し当てて呟いた。
「もっと――力を」
背後に濃密な気配が突如現れて彼に語りかけたのは、その時だった。
「力を望むか? 麗々しき笑みと甘言で人を動かす者よ」
アスモデアノスははっと息を呑んだ。たった今まで何の物音もしなかった。しかし、突然現れた存在が放つ強大な魔力に、大気が揺らいでいる。
振り返ると、窓から陽光が射し込む室内のただ中に、夜の闇を集めたような暗い帳に包まれた“何か”が佇んでいた。闇の奥で、二つの真紅の瞳が爛々と輝くのが見えた。
「若き天族よ。お前の身中に我を住まわせるならば、我が力を与えよう」
穏和な声音だったが、声の主が放つ圧倒的な魔力と存在感は、相手がこの世の者でないことをはっきりと物語っている。
多くの人と関わりながら生きてきたアスモデアノスの、処世の才が告げていた。相手が何者か確証はないが、おそらくこれはまたとない好機。そして、対応を誤って怒らせるようなことがあれば、彼の生命が危ない、と。
声の主の関心を引くような返答をしなくては――掌に汗がにじむのを感じながら、彼は慎重に言葉を選んだ。
「やあ。こんな所まで訪ねて来ていただけるとは、驚いたよ」
その反応が正しかったのかどうか。闇の中の声は続けて言った。
「我は魔獣七十二の一柱、“闇をも惑わす甘い誘い”の力を持つ者。新しい宿り主を探している」
「魔獣七十二……」
アスモデアノスは固唾を飲んだ。
魔界の創世に携わり、現世の者に宿って永劫の時を生き続ける強大な存在。それが新しい宿り主を探しているということは、元の宿り主はすでにこの世を去っているのだろう。そして、その人智を超えた力を手にする機会は、やはり今しかない。
「そんな提案を私が受けられるとは光栄だな」
緊張を気取られまいとしながら、アスモデアノスが言葉を選びつつ答える。彼を見つめる闇の中の瞳が妖しく光った。
「ただし、我を宿した者の体には相応の変化が起きる。全身がくまなく毛に覆われ、瞳は牛馬のように甚だ黒目がちになり、額には羚羊のような角が生えるのだ」
「それは……」
端麗な容姿を持つ青年は眉を寄せた。
「その変化と引き換えに私が手にできる力とは、どんなものだね?」
「百万の群衆を一声で意のままにする魅了の力を。猛龍の頭蓋を一撃で砕く膂力を。お前が望めば、周りの者すべてが大地にひざまづき、お前の糧になるだろう。それで構わぬならば――蠱惑の眼差しで人を誑<たぶら>かす者よ、我を求めよ」
闇の声の返答を聞くと、アスモデアノスは不敵に微笑んだ。そして、闇の帳に向かって両腕を広げた。
「いいだろう。魔獣よ、私の体を住処<すみか>とするがいい!」
「よし。天族よ、お前の命が尽きるまでその身に住まわせてもらうぞ!」
そう言うや否や、闇の帳がにわかに拡がってアスモデアノスの全身を押し包み、魔獣の力が彼の体内に流れ込んできた。
アスモデアノスはその衝撃に思わず叫んでいた。自分だけのものだった空間に、もう一つの自我と膨大なエネルギーが入り込んでくる、すさまじい圧迫感と灼熱感。視界がぐらぐらと揺れて立っていられなくなり、体中の血が逆流する感覚に襲われる。
それらが収まったとき、彼は今までにない力が自分の中に満ち溢れているのを感じた。
「アスモデアノス様!? アスモデアノス様! 大丈夫ですか」
声を聞いて駆け付けたのだろう、うずくまっているアスモデアノスの傍らに女の部下の一人が膝を付いて、不安げに呼び掛けている。その手を取って立ち上がると、彼は部下に微笑みかけた。
「心配ない。ちょっと立ち眩みがしただけだ」
「そ……、そうですか。よかった……で、す……」
返事をする部下の様子がどこかおかしいことに彼は気付いた。
熱を帯びた視線を向けてくるぐらいのことはどの部下でも普段からするのだが、目の前にいる部下は頬を上気させて蕩けたような表情を浮かべ、アスモデアノスの顔から視線を逸らそうとしない。日頃彼女たちに多少親しげな接し方をしても、ここまで魂を抜かれたようになることはなかった。
もしや――アスモデアノスは部下の手を離して窓辺に近付くと、花瓶に生けてあったマリーゴールドの花を一本抜き取り、彼女の所に戻って手渡した。
「これをあげよう。――『食べて』いいよ」
毒がないとはいえ、飾ってあった切り花だ。拒まれたら、冗談だと笑うつもりだった。
しかし。
「え……? い、いいんですか……ありがとう、ございます……」
彼女は蕩けたような微笑を浮かべたままその花を受け取ると、緑色の茎まで口に含み、何の疑問も感じていないかのように咀嚼して飲み込んだ。アスモデアノスは目を見張った。
「ともかく、私はもう大丈夫だ。君も持ち場に戻るといい」
「は……い」
なんとか平静を取り戻して促すと、部下は夢を見ているような足取りで執務室から出て行った。
「これが……“甘い誘い”の力か」
再び一人になったアスモデアノスが呟くと、くくくっ、と声を押し殺して、真紅の瞳の魔獣が彼の中で笑うのがわかった。
机の近くの壁に掛けてある鏡を覗き込み、顔を映してみる。さっきまでと変わらない、ごく正常な天族の姿だ。魔獣が言ったように、やがて獣のような容貌に変わっていくのだろうか。
――それでもいい。
アスモデアノスは拳を握り締めた。新たに得たこの力があれば、きっと望みを叶えることができるだろう。魔獣の新たな宿り主となった青年は、顔を上げて昂然と呟いた。
「今日、この場所から、すべてを変えよう」
それは後に“南の鬼魔王”と呼ばれることになる男の、知られざる決意表明だった。